200613日記

200613日記(日記について、仕事について、お気持ちについて、ISF09について)

 肩の力を抜いているので、誤字脱字その他おかしな文章については気にしないことにする。疲弊したくない。

 

日記について

 TLの人間(カテゴリーを跨いだ複数人)が最近日記を書き始めており、真似をしたいと思った、それだけでキーボードを叩いている。執拗に続ける気はなくて、たまに書くくらいでいいし、これが最後でもいい。これが最後になる可能性は高い。

 今までの人生で「日記を書こう」と決意したことが何度かあって、どれも3日以上続いたことはない。不思議なことに、日記が続く日数は初日のモチベ―ジョンの高低に関わらずどれも概ね3日以内だった。最近だと4月8日~4月10日だ、現実に1ページしか使っていない自由帳がある。そのときのきっかけも「誰かの真似をしたい」だった気がする。生憎始めたきっかけについては自由帳に書いていないので根拠はない。

 真似をしたい、というのは結局のところ他人が羨ましいのである。手持ちのコンプレックスの話はまた別の機会があればしたいし、しなくて済むならそれに越したことはない。日記の何が羨ましいのか、と言われるとはっきり答えられないが、やはり個人の存在が縁どられるところだろうか。そんな大層なことではないけれど、たまには個人として存在したいじゃないか。方便かもしれないし本心かもしれない。

 

『違国日記』は読んだ。読んだのも、TLにいた誰かの真似だった。

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』も昔読んだ。まだ社会に出たばかりの頃だ。当時読み終えてうんうんと感心していたところで、個人的に尊敬している人物が「書いていることは肯定できるけど、これを読んで感心しているやつは今すぐ両親に大学の学費をドブに捨てたことを土下座してこい」という旨のツイートをしていてショックを受けた思い出がある。ショックを受けた理由はその発言の攻撃性ではなく(原文はもっとマイルドだった)、無論学費をドブに捨てていたことが歴然としてしまったからである。そのツイートにも賛成だった。結局、年表は書かなかった。土下座もしなかった。

 突然二つの書籍名を出したことに大きな意味はない。日記に関連して頭の中に浮かんできたから急に挙げた。ここはくだらない日記なので、それでいいと思っている。

 

 

仕事について

 最近仕事が楽しい。

 というのは嘘である。ない方がよほどいい。

 しかし春の異動前より、精神的に良好な日数が多いのも事実である。具体的に言うならば通勤途中で吐くとか、眠れない深夜に職場へ電話をかけるとか、そういう取るに足らない感傷行為をしなくなった。

 何の仕事をしているかはここには書かないが、ツイッターでしばしば言及しているので人によっては察してもらえていると思う。ツイッターで自身の職を明かすのはリテラシーが壊れている、というのはわかるが黙ったまま精神が吹き飛ぶよりはマシだ。合理的だと思っているが合理性について判断する機能はついていない。概ねそんな感じである。実際、業務内容は刺身にタンポポを乗せる仕事とさして変わらない。

 

 

 お気持ちについて

 本当に大した話ではない。でも長々と書く。要は「お気持ちを読んで、間接的に頭を抱える嵌めになったが、他人の情報選択によってすっきりした」という話だ。ツイッターで深夜に気持ち悪い呟きを連投した件について、自分の中で整理するために書く。だいたい2020年にもなって他人のお気持ちに頭を抱えるなというのはごもっともだ。

 自分のために整理するのでわざわざリンクを張る義理もないのだが、万一にこれを読んでいる人、というより未来の自分が手持無沙汰にここを見返したときに不親切だと可哀想なので張っておく。

 

「さよならアイドルマスター -僕とミリオンライブと伊吹翼- - ぶろぐ」

https://j14fvc8r5tt7.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

上の記事を以下「さよなら」と呼ぶ。この表現に引用記事を貶める意図はない。

 

「伊吹翼は本当に成長していないと言えるのか - noa765の日記」

https://noa765.hatenablog.com/entry/2020/06/08/122401

上の記事を以下「ブログ」と呼ぶ。この表現に引用記事を貶める意図はない。

 

 先に予防線を張るが、これから書く話は伊吹翼の話、というより自分の姿勢一般に関する話である。そして本当に大したことはない。

 

 さて、どういう流れだったか。もう終わった話なので思い出しながら書く。

 「さよなら」についての話題はどこからともなくTLに流れてきた。否定的なコメントと一緒だったような気がする。特に何も考えずにリンクを開いて、読んだ。

 内容云々よりも自分の考えをよく言語化できるなと羨ましく思い、ライブの話は特に共感なく、2年半が長いのはわからなくもない、と漠然とそんな感想を抱いた気がする。伊吹翼が好きな人で芹沢あさひに惹かれる人間は多いな、ともぼんやり思っていた。

 「さよなら」の内容それ自体にはここで触れない。正しい間違いは別にないし、そういう考えが存在するのは記事が存在する限り事実だ。

 

 気になったのが「グリマス」「ミリシタ」「ゲッサン」の伊吹翼の比較だ。

 確かにそれぞれの伊吹翼像は異なる(と個人的に思っているが世間一般でどういう扱いなのかは知らない)。そして、それについて、「さよなら」を読んだのをきっかけに靄がかかった。端的に言って「そうだったっけ?」と思った。

 というわけで自分の中でまとめようと思ったのである。仕事中にタンポポを乗せながら頭の中では伊吹翼について考えていた。特に「さよなら」で書かれた「成長」について。

 媒体ごとに伊吹翼の課題設定は異なる(と思っていた)。「ミリシタ」でのテキストは前に個人的にまとめたのでそこまで労力は掛からない。「ゲッサン」も読み返すのに苦労しない。名作だ。「グリマス」は厳しいがネットの情報を漁り続ければ不可能ではない、かもしれない。各CDのドラマパートもなんとかなるはず。

 頭痛の種は2つあった。

 伊吹翼のテキストについてまとめたものを書くとして、非公開で個人的に残すとしても、前置きで「以下の文は歌詞解釈、現実のライブ、中の人の話を含まない」という文言は絶対入れるだろうなと思っていた。はっきり言って追えきれていないし、何よりその方面の解釈が苦手だった。しかし、それらは伊吹翼(というよりミリオンライブのキャラクター一般)を語る上で大きな位置を占めているという認識もあった。

 だからそれらを含まない解釈は不誠実だ。もうキャラクターの9割の要素が失われている、と他人から指摘を受けたら反論ができない。(私個人が何割を占めると思っているかに関わらず。)

 もうひとつ。「ミリシタ」「ゲッサン」「グリマス」での件を語る上で全てに一貫した伊吹翼像はいない、どころか、それぞれの媒体内ですら一貫した人物像は存在しない気がしてきた。存在しないは嘘で、提示された要素全てに対して確固たる像が想像できなかった。

 となると、そもそも「成長」を語る上で要素を選択して、あえて語らない要素と語る要素をわける必要が出てきた。「ミリシタ」の「グロスト」「サンリズム」のコミュで他人へ手を伸ばすことは「成長」か、それは「りるきゃん」「リブラ」のコミュでも下地にあるのか。「グリマス」の「野球イベ」で「野球は他人のミスを取り返せるスポーツ」と言ったがそれから「極道」での他人への献身は成長なのか、LTDのドラマパートやNP編は文脈に沿うのか。(NP編は個人的にめちゃくちゃ好きな側面があるのだがここでは書かない。)「ゲッサン」は3巻で星井や最上の認識は一貫してるのに成長なのか、春日とステージに立った1巻と4巻、5巻で他人やステージに向ける眼差しは違うのか、それは成長なのか。協調性のなさ、とは何なのか。

 どれを拾ってどれを捨てる。それらの選択自体に合理性がないように感じた。

 というわけでタンポポを見ながら頭を抱えていた。まあ、それでも書くかと思っていた矢先、「ブログ」は投稿された。 

 主観的に言って、内容は誠実で、展望は明るい。単純に読んでいて気持ちがいいものであった。何より、自分の解釈の上位互換的な立ち位置にあった。

 ただ、それらよりも救われたのは恣意性だった。

(先に言うが、ここでいう「恣意性」という言葉は専門用語の方ではなく、あくまで個人的に適切だと思って選んだ日本語だ。別に情報選択でもバイアスでも、もっと汚い言葉でも綺麗な言葉でもいい。)

 メール→サンリズム→マリオネット→Bmc→深層の線。アイルの話、5巻の話。「以下の文は歌詞解釈、現実のライブ、中の人の話を含まない」などという恥ずかしい予防線もない。触れないコミュのリストも作らない。そうして書かれたものが存在している。気持ちよく読めるものとして存在している。要らないものは載せていない。それが純粋に「いい」ものだった。

(特に3巻がどちらかといえば成長の話ではないというニュアンスに救われた。自分もそう思っているが、自分だったらMORの話を思い出してはっきりとは書けない。)

 最後に「個人的解釈」という譲歩があったのも助かった。アカウントを追って、筆者がテキストを読み落としているわけではなく、把握している情報から削って載せていることもわかった。(当然だが自分よりも伊吹翼について誠実かつ丁寧に情報を追っていた。)

 結局、自分が途中まで書いていたメモは消した。ブックマークひとつで事足りた。

 

 自分の恣意性は肯定しがたい。だから他人の恣意性にしばしば救われる。現実の自分が精神的にあまりにも軟弱だからこういうことになるのだ、と内なる主人に叱られている。(そもそも軟弱だから他人のお気持なんかに刺激されるのだ。)

 他人の行動から他人の内面を決めつける行為が自分の中では良しとしきれない。

 たとえば○○という人物から××という行為をされて「○○は馬鹿だ」と決めつけるのは躊躇する。他の行動や理由を把握しきれないのに短絡的なレッテルは許されない。(だから他人が苦手だ。)(これが出来るのはコンテンツのキャラクターにだけで、だから伊吹翼に対してしようとした。)

 が、誰かが「○○は××したから馬鹿だ」と言ったのを聞けば、それなりに気が楽になる。なんとも不便で、都合がいい。他人の共感を餌にしなければ生きていけない、つまらない人格を数十年かけて形成してしまった。

 ツイッターは楽だ。他人の発言一つを抽出してブロックの理由に出来るし、自分の発言一つで見限ってもらえる。検索をかければバイアスのかかった共感が瞬で画面上に並ぶ。今回の「さよなら」も「ブログ」も無数に存在するユーザーの一意見からピックアップしたものだ。

 恣意性に対する誠実な態度とは何か。昔、それについて「恣意性を自覚しつつ常に認識をあらためること」と言われた。ツイッターはそれに向いていない。恣意性の高いTLを作れるし、過去の発言は簡単に掘り起こされて自己弁護の余地もない。

 自分はそういう世界で人生を浪費しているんだなぁ、と今回の伊吹翼の件を受けて思っていた。ひどい自己陶酔に振れた上で曖昧な結論に不時着したのでこの話は終わりにする。

 

 伊吹翼というキャラクターは好きだ。いつかその話は別個にしたいし、しないかもしれない。

 

ISF09について

 個人の本は出さない。出したかったが、書くことがなかった。(本を出すことの自己目的化は否めない。けど、別に二次創作における自己目的化に否定的な立場はとっていない。そんなの捉え方ひとつだ。)

 思えばピクシブに上げなくなって半年が経った。そういう期間になってる。某氏が週末のお題を出す遊びをしてくれたのは楽しかったし非常に救われた。

 厚意に甘えて合同誌には寄稿する。(いつも某サークルには甘えてばかりでいる。感謝しているし申し訳なくもある。)参加人数も多く、テーマがテーマなだけあって早く読めるのを頗る楽しみにしている。

 思えば、1月末からファイルを作り、秘伝のたれの様に未だに継ぎ足ししているのに、まだ完成していない。書きたいものはあるのでもうちょっと頑張りたい。せめて賑やかしになればと願ってる。

 

 余談だが、二次創作と恣意性はひどく密着している(気がする)。だから居心地がいい。不誠実で邪悪な居心地だと思う。最上と北沢が公式で同居するとは思っていないが、今のところ根幹的な否定材料はないので良しとしている、そんな感じ。(自分の恣意性を唯一他人無しに肯定できているのは現状二次創作の中かなと考えている。それですらも他人がいると強いし感想は嬉しい。不誠実だなとよく思う。)

 

 

 200613日記終わり。

 本当に母国語は日本語なのかと訊かれたら頷かないで曖昧に笑っていたい。